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『To the Moon』は、本当に「感動しなかった」で終わらせていいゲームか?

Posted on 2012年12月30日日曜日 | No Comments

『To the Moon』のレビュアー企画、個人的には大変楽しませてもらった。同じゲームの作品が一同に介するというのはやりがいもあり、なかなかどうして個性も出てくるもので、レビュアー毎に異なったアプローチがあっておもしろかった。

私は例のごとく、乾いた感じのレビューを投稿したわけだが、ほかの企画参加者のレビューを読んで思うことがあったり、改めてプレイをしてみて『To the Moon』自体に思うところがあったりするので、こうして筆を執った次第である。

レビュー記事の紹介

PLAYISMの企画に参加していたレビューを紹介しておこう(公開済みのもののみ)。

9bit - 『To the Moon』は琴線を殴る
http://9bit.99ing.net/Entry/18/

Miyaoka Note -To the Moon*1
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:64_iMNwPydQJ:www.t-p.jp/miyaoka/archives/4532

*1 サイトにつながらなくなってしまっているので、GoogleキャッシュのURLを貼っている。

くまにもすすめたい - 番外編
http://kumasusume.blog.fc2.com/blog-entry-15.html

ゲーム日記のようなもの - 「月に行きたい」To The Moon 感想&紹介
http://hahahagmf.exblog.jp/18156467/

Yata Blog - レビュー:海外インディーPRG「To the Moon」 - RPGの形をしたビジュアルノベル
http://etwas.wolfish.org/blog/p2012111601/

Game*Spark - 短編映画のような切ない物語『To The Moon』日本語版プレイレポ
http://gs.inside-games.jp/news/370/37041.html

毎日ムキムキ - 『To the Moon』は、本当に「感動した」で終わらせていいゲームなのか?*2
http://hakotossdm.blog42.fc2.com/blog-entry-1486.html

*2 本稿のタイトルは、この毎日ムキムキのレビュータイトルを露骨に真似たものだ。

AstralGate - レビュー 『To the Moon』 「『あの頃』へ」
http://astral-gate.com/indiegamereview/3720/

旧世紀網膜博物館 - 展覧会/To The Moon
http://burikino.blogspot.jp/2012/11/to-moon.html

個人的には、以下の3つが特に気に入っている(敬称略)。

  • ゲームの良し悪しで終わらせずに、読み手とプレイヤーに問いかけた、毎日ムキムキ(コメント欄含む) 
  • 読み応えと重厚な味わいがあり、後半の畳み掛けが心地よい、旧世紀網膜博物館
  • ゲーム体験という部分にフォーカスした視点がおもしろいAstralGate

なお、『To the Moon』のレビューで私がいちばん気に入っているのは、次のレビューである。

The Great Underground Home Page- To The Moon: レビュー
http://clavis.info/wiki/to_the_moon_review

淀川長治の口ぶりというのは人を選ぶかもしれないが、ゲーム視点とストーリーを絡めた分析は必読だろう。物語を改めて俯瞰できることもあって、クリア済みのプレイヤーには特にオススメである。

手前味噌ながら、私の書いたレビューも一応貼っておこう。

レビュー『To the Moon』
http://nydgamer.blogspot.jp/2012/11/to-moon_12.html

『To the Moon』はゲームであったか

問いである。

我々ゲームを楽しむ者は、「これはゲームであるか」だとか、「これはゲームである必要があるか」という疑問をしばしば胸の内に抱く。

ひょっとしたらそれは孤島を放浪するゲームをプレイしたときかもしれない。あるいはそれをパロディ化してFuck This Jamで生まれたゲームかもしれない。交通事故にあった女、墓場を彷徨う老婆、愛しき人を待ち続ける男などが登場するアクの強いゲームたちかもしれない。人によってはノベルゲーやビジュアルノベルと呼ばれるゲーム群を、「あれはゲームなのだろうか」と疑問を呈しているのかもしれない。
一人の男が孤島をゆく、『Dear Esther』
シャチが空を漂う『Dear Esther』パロディ作品、『Dear Esteban』
事故にあった女性の見る奇妙な夢を描いた『TRAUMA』
墓場と老婆が織りなす奇っ怪なモノトーン劇『The Graveyard』
待ち人の来ぬ侘しさたるや如何に。『Dinner Date』
さまざまな要素をミックスアップして構築される現代のゲームにおいて、アドベンチャーという言葉にどれほどの意味があるのかはわからない。だがクラシカルな意味でのアドベンチャー、純アドベンチャーとでも形容したくなるようなゲーム群は、たびたびこの問題と直面してきたのではないか、と想像する。

言わば、かのゲームたちが生まれながらにして持った宿命なのだ。

いずれにしてもゲームを楽しむからには、我々の割とクリティカルな側面を突いてくる問題であるのは間違いないだろう。『To the Moon』もそういったゲームのひとつだったように思う。本作のレビューでも、少なくない数のレビュアーがこの部分について言及している。
伝統的なRPG形式かつドット絵による物語表現だからこそ、絶妙ななにかが成立してるんじゃないかなと思う。その様式に対して特定の受容モードをとれるかとれないかで、もしかしたらけっこう評価が分かれるのかもしれない。
- 9bit
まず最初に断っておきます。
これはゲームではない。RPGの形をしたビジュアルノベルと言えるだろう。
- Yata Blog
 TTMはゲームの形態を取った。
 マウスやカーソルによって移動をさせ、ゲームらしいクリックによるアイテム集めやパズル要素を組み込んだ。だが、それらは無くても良かった。無いほうが、良かった。
 ゲームでなくて、良かった。
 ではFreebirdがゲームの形でTTMを作り出したのは失敗だったのだろうか?
 小説や映画の形で世に送り出すべきだったのだろうか?
 いや、そうではない。
 TTMはゲームでなくて良かった。だがゲーム以外の形で世に出すべきだったかというと、そうとはいえない。なぜなら、ゲームは他の媒体には無い長所があるからだ。正確には、現行ゲームとされている媒体では、か。 
(中略)
 TTMはゲームでなくて良かった。だが、きっとゲーム以外でこの作品を世に送り出すことはできなかっただろう。
 でなくては、映像と、文章と、そして素晴らしい音楽と、あらゆる感覚器官を通して訴えかけることはできなかっただろう。
 だから、ゲームという媒体でTTMが発売されたのは、きっと正解なのだ。
 
 そう、ゲームで良かった。
 だが、ゲームらしくある必要はなかったのだ。
- 旧世紀網膜博物館
『TotheMoon』は、大人の鑑賞に堪えるレベルの作品なのか。
安っぽい「お涙頂戴」ではないのか。
仮にストーリーが良いとしても、それがゲームである必然性はあったのか。
(中略)
本作が「ゲームでなければ成し得なかった表現である」と言い切るのに十分な根拠を与えている、
というのが、私の見解です。
- ASTRAL GATE
私自身はゲームであるかどうかにはあまりこだわらない(ようにしている)。がしかし、あえて言うならやはり『To the Moon』はゲームであった。

一方で「『To the Moon』は映画や小説で嗜むべきストーリーではない」とも思っている。というのは「これが既存の形をとった映画や小説だったのなら、ひどく陳腐な物語に感じられるのではないか」と素朴に感じたからだ。

これを「ゲームが提供するストーリーへの宣戦布告」と受け取られても仕方なかろう。私が触れたゲームは必ずしも多くはないし、特にストーリー性を重視するゲームに限ればなおのことであるから、発言に説得力がないのは重々承知である。

それでもまだ映画に小説、演劇といったものに比べれば、大衆が手にするゲームのストーリーまだまだ未熟ではないかと思う。それはゲームにストーリーが必要とされていないのではなく、単に未踏の地であることの証左なのだ。換言すれば、大きな可能性が眠っているはずなのである。

さて話が逸れた。

私が「『To the Moon』はゲームであった」としたのは単に様式を見ただけにすぎない。90年代後半のスーパーファミコン世代を彷彿とさせるビジュアルや、特段珍奇ではないアドベンチャー然としたシステムを見ただけのことだ。「ゲームである必要があったか」という点においても大きく頷ける内容ではないと思う(そういえば映画『インセプション』のようなゲーム内容だったら、という発言をいくつか見かけた。それならゲームであることが必然性を帯びてくるような気がする)。

が「ゲームであるかどうか」なんて大切だろうか。私は今のところ、この論議にあまり意義を見出せていない。以下のような具合である。
髪を。
そっと指で梳きながら。
ニヤリと、唇を歪めて見せた。
「そんなことはどうでもいい」

私の心情から乖離していった結末

前置きが長くなったが、『To the Moon』のもたらした体験とそこでプレイヤーが得た感動、そして両者と私の間に生じた齟齬について考えてみると、私がゲーム中にミスリードされていたことに気がつく。

作中では「結果よりも過程が大事なんだ」という旨の台詞が時折出てくる。これは最初にエヴァが言い出し、のちにニールも共感を覚えるようになっていく。当然プレイヤーである私も、同じように思っていた(プレイヤーが操作するのも、ゲームが進むにつれてエヴァよりニールが中心になっていく印象がある)。
序盤より、エヴァの台詞
終盤より、ニールの台詞
したがって物語を読み進めるうちに、エンディングは当然この台詞に沿ったものになると思い込んでいた。夫婦がわかり合えないまま、妻が先立つという事実は変わらない。だからその結果は事実として受け取ろう。でもそこに至るまでの道のりはなんとかしたい。「きっと白衣の2人がなんとかしてくれるものだ」と私は信じて疑わなかった。

まずは「そこを裏切られた」という想いが強いのだ。もっともこれだけでは『To the Moon』に対して感動できないという結論を持ち出すには弱すぎるだろう。次節以降ではもう少し踏み入って考えてみたい。

『To the Moon』の要点

はじめに『To the Moon』のストーリーについて、重要な部分をピックアップしてまとめておこう。なお、私自身の解釈(という名の思い込み)も混じっているので注意してほしい。

※以降の内容は『To the Moon』の完全なネタバレが含まれているため、プレイ予定のある方や未クリアの方はクリアしてから読むのを推奨します。

  • ジョニーは、双子の兄のジョーイを事故で失っている。結果、事故を起こした母からは兄の名「ジョーイ」で呼ばれ、元々好きでなかったオリーブのピクルスやアニモーフ(これらは兄ジョーイの好きな物である)を好きになるほど、ジョニーの人物像は歪んでしまった。つまるところ、ジョニーの半分は、嘘で形作られたジョーイの幻影なのである。しかも皮肉なことにジョニー自身がこのことを意識することはない
  • ジョニーとリヴァーは幼い頃に1度会っており、そのときに「来年また会おう」という約束を残している。そこで「もしも迷ってしまったら」と訊ねたジョニーに、リヴァーは「月で会おう」と答えている。これこそが本作の要ともいうべき事柄。ジョニーが理由もわからないまま月を目指したのはこのため
  • ジョニーは、事故で兄弟をなくした衝撃でそれより前の記憶を失っており、小さい頃にリヴァーと出会ったことも忘れてしまっている。それに彼女に惹かれたのは、単に物珍しい人をそばに置くことで自分が特別な存在になれると思ったからで、実際のところ(当初は)特別な思い入れはない
  • ジョニーがリヴァーに惹かれた理由を聞かされたリヴァーは、突如、折り紙を折り始める。折り紙は最初に2人が出会ったとき、星空に思い描いたウサギ。最終的にはお腹の部分が黄色いウサギを折る。これは2人が星空に作ったウサギをより直接的に表現したもの。髪を切ったのも、ジョニーに過去の自分を思い出してほしいからであろう
  • 最終的にはジョニーとリヴァーが付き合い始めることになった部分の記憶を改変することで(ジョニーが告白できないようにした)、ジョニーを月に行かせることに成功する
  • それでもリヴァーは、ジョニーの新たに作られた記憶の世界に現れる(これはエヴァの賭けであった)。そしてジョニーの願いどおり、2人は月で(宇宙で)再会を果たす

なかでも重要なのは次の2点だろう。

  • ジョニーが月に行きたいのは、本人は意識していないがリヴァーに会いたいがため
  • リヴァーが折り紙を折っているのは、幼い頃の約束を忘れてしまっているジョニーにメッセージを送っているから

2人はすれ違ったまま、リヴァーは死を迎えてしまった。それにリヴァーが折り続けていた折り紙の意図をジョニーは理解できなかった(「兄弟を失った事故」によってジョニーの記憶が失われているからである。ただしリヴァーがこのことを知るよしもない)。しかし、ジョニーもやはり心のどこかでは彼女のメッセージを受け取っていて、結果として「月に行きたい」という願いだけが現実のものとして現れた。

ここで話を先へと進めるまえに、Twitterで以前見かけたストーリーに関する話を紹介しておこう。『To the Moon』のストーリーに対しても同じように考えることができるはずだ。
余談であるが、図らずも「白衣の男女コンビが自分たちのそばにある小さな世界を変えるために、大方同じながら微妙に細部が異なる世界を行き来する」という物語は、『STEINS; GATE』と『To the Moon』との間で奇妙な一致を見せる。
お互いを仲良く罵る様も、エヴァとニールにどこか似ている『STEINS; GATE』のコンビ
先のツイートに従えば『STEINS; GATE』で泣いたのに、『To the Moon』で泣かなかった私は、後者で感情の導線をうまく読み解けなかった(あるいは作品がそれを許さなかった)ことが原因なのではないか、と思う。

その願いは果たされたのか

物語を読むとき、私は主たる登場人物の幸せを願わずにはいられない。

最愛の人がポッと出のよくわからない三下に撃ち殺されて、白い鳩が飛び立つような描写があっても構わないし、主人公が宿敵と刺し違えて瀕死の重傷を負ってしまい、どう考えても助からないという状況でも構わない。過去に行ったことのけじめとして、かつての同僚に自らの命を絶たせてもいいだろう。全部はいらないから望むべきものを、1つでいいから手にしてほしいのである。主人公と(彼らの気持ちに追従してきた私の)願ったことが成就されてほしいのだ。

このとき、同時に「その結果は果たして幸せなのだろうか」ということを、私は知らずのうちに問う。この問いには次の2つの側面がある。

  • 登場人物が望んでいた結果かどうか
  • 私が望んでいた結果かどうか

とりわけ後者はしばしば都合のよい展開を欲する。「実はあいつが生きていればなぁ」とか「どう考えても失敗だけど、奇跡的に成功している」とかそういったものだ。しかしそこには論理的矛盾の壁やご都合主義という安っぽい幕引きが立ちはだかる。そこをうまく納得させるのが、感情の導線なのだと思う。

ではジョニーの見た夢物語は、本当に彼が望み、そして私が望んだものだったのだろうか。それとも字面どおりの夢物語、儚い胡蝶の夢だったのだろうか。たしかにあの結末はジョニーが求めていたものだったろう。それは疑いようがない。それでもやはり私はあまりにジョニーに都合がよすぎるとしか思えない。

彼の愛していたリヴァーはもう帰ってこない。これは動かしようのない事実であり、突き詰めていくと、ジョニーとリヴァーの間に生じた溝は未来永劫埋まらないのである。ただその溝をどうにかして埋める、せめて隔たりを小さくするのがシグムントのエージェント2人に託されたものではなかったのか、と思わずにはいられないのである。
彼の言葉を、額面通りに捉えるべきなのだろうか
ジョニーが願っていたのは表面的には「月に行きたい」というものだったかもしれない。ただそれは本質的には「リヴァーとの間に生じた軋轢をどうにかして消し去りたい」という想いだったのではないだろうか。リヴァーに対する強い心情があったからこそ、彼の忌まわしい記憶を乗り越えて「月へ(To the Moon)」という願いが、理由もわからないのに表出してきたはずなのだ。

せめて夢の世界だけでいいから、ジョニーとリヴァーのもつれた関係をきっちり結び直してほしかった。これが私の望んだものだ。だが『To the Moon』は私の願いを叶えてはくれなかった。だから私は涙できなかった。結末に目頭熱くすることなく嗚咽を漏らさず、冷たくため息をつくようにプレイを終えた。

このままでは最後までジョニーはひとりよがりで、自分勝手に気ままに死んでいったみたいじゃないか、と憤りを覚えるのである。死を間際に迎えた老人が、普通は考えつかないような「月へ行く」という願いを抱くまでには、とうの昔に誰しもが忘れていてもおかしくないような古びたエピソードがあって、さらには自身を歪めてしまうような記憶がそのエピソードが浮上するのを妨げていたのである。決してひとりよがりなだけではなかったと思いたい。仮初の世界でリヴァーと結ばれて何がうれしかろうか、そこに2人の距離を縮めるような何かはあったか、と物語の紡ぎ手(不幸にもゲームで物語を紡ぐのは私自身である。たとえそれが避けられない運命であろうと)に問わずにはいられないのである。

ジョニーと一緒に月へ行ったリヴァーは、彼女の形をした何か、蜃気楼のようなものだ。ありもしない虚構に手を伸ばし、誰に届くでもない果てしなく空虚な想いを抱いたまま、依頼者ジョニーはその人生を終えた。そこにあるのは彼自身の精神の充足だけで、最期を看取る私に充足はない。

その光景を見るにつけて、リヴァーがあの灯台、アーニャになんの思い入れも持たなかったらと想像して、ジョニーの姿を重ねてしまう。誰に見向きもされることなく打ち棄てられ、朽ち果てていくのみの灯台。

そこにリヴァーが手を差し伸べたことで灯台はその姿を保つことができた。だが折り紙という形で彼女が手を差し伸べた相手、ジョニーはその手を繋げずに終わってしまっているのである。あろうことかリヴァーでも、さらにはそのほかの誰でもないリヴァーの姿をした影と手をつないでしまった。そしてそれは最後まで変わらない。
変わっているが、純粋なリヴァー
彼女に感情移入するほど、結末は残酷なものへと変わっていく
2人の間にわだかまっていた呪縛は、お互いが死ぬまで、そして都合のよい記憶だけが像を結ぶ、新たな記憶の世界でさえも残り続けたのである。

あまりに悲しくて、辛すぎる運命で、私はそれを手放しでは受け取れなかった。

私の知るもう1組の白衣の2人は、過酷な未来を回避するために、ただひとつのごくありふれた小さなしあわせを得るためだけに、大きな代償を払っていた。対して『To the Moon』では支払われる代価はなく、得られる報酬も歪みきった世界ではないかと思わずにはいられないのである。

未熟は誰ぞ。主役か、作品か、はたまた我か

『時をかける少女』の記事を読んだ。

The Great Underground Home Page - 時をかける少女(感想)
http://clavis.info/wiki/The_Girl_Who_Leapt_Through_Time

そこでふと感じたことを、投げっぱなし気味に書いて本稿を締めくくりたい。

アニメ版『時をかける少女』は未来を変える話だ。
『STEINS; GATE』もそうだった。
『To the Moon』も形は少し違うとはいえ、未来を変える話だった。
2012年12月30日追記
未来を変えようとするのは、アニメ版の『時をかける少女』なそうなので上記の記述を修正した。

自身が望む未来に一歩でも近づこうと、彼らはあらゆる手を尽くした。時間を、記憶を、大切な何かを、そしてなにより自身を犠牲にした。「求める結末のため、因果に手をかける」という点において、この3作品は共通している。

ただ『To the Moon』がほかの2作品と決定的に異なる点がある。それは未来を変えたい人物が死の淵に佇む老人で、因果を変えるために行動を起こすのが本人ではないことだ。この点が、私を物語から引き離した一因なのかもしれない。このような物語は、私にとって若者が演じるものだったのである。

現実というのはあまりに無情で、自分の力ではどうしようもないということが腐るほどある。物語に登場する前の紺野真琴(『時をかける少女』)や岡部倫太郎(『STEINS; GATE』)は若いがゆえに、このことをあまり知らない。しかし、彼らがひとたび物語の主役となって舞台に上がれば、そのままでは済まされない。いくら踏ん張っても、途方もない大きなものを捨てても、結果というのは簡単には変わらない、という当たり前すぎる現実が眼前に立ちはだかるのだ。

同時に「結果じゃなくて、過程が大事」という、これまた当たり前の事実が頭をもたげてくる。彼らはフィクションの主人公であるから、ある程度納得する形で幸せな幕引きが待っているのが普通だが、それでもやはり過程が重要なのだ。
ヒーローじゃないからこそ、過程が大切になるのではなかろうか
振り切れそうな気持ちを抑えて、つっ走り、躓き、擦りむく。
俯いたり空を仰いだりしても、血や涙を流しても走ることをやめずに、過去と因果を振り切る。
そんな物語を期待していたのだと思う。

しかし、『To the Moon』はそういった物語ではない。

それは水面に石を放おっては、波紋の行く末を眺めるかのようだ。
残された時間はわずかだ。
若者特有の熱情は捨ててある。
死の足音を感じながら、過去を振り返る。
背負った重荷を捨てるのか、背負ったまま逝くのかは知らない。

そう考えると、私がプレイするにはまだ早すぎたのかもしれない。年を重ねたら改めてプレイするべきなのかもしれないな、と思ったりするのだ。

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